2016年03月15日

【第2の聖書】イエス・キリストの御言葉(第11話)

引き続き、イエスの講話「第11話」を紹介したい。
(※私が特に強調したい部分を赤字にした)


82 新しきエルサレム 黙示録三章を
先触れするもろもろの前兆が天空に出ている。

83 天にあるもろもろの動きは絶対者の想念の現れである。
貴方達も又絶対者の想念である。
故に貴方達は絶対者の愛と癒しとを現さなければならないのである。

85 想念とは単なる観念ないし心象ではない。
尤もその観念や心象は心を通って行くものではある。

86 想念は思考者(神我)の直接の表現であって、
決して思考者より分離しているものではない。
それはあらゆる現象形態の背後にある創造過程である。


87 人間は心の中に、何か或る観念があると
それについて色々と考えるものであるが、
そのことは、自分自身(真我)にとっては
外部であるものを見詰めていることになる。
実在は想念の背後にある。
本当の思考は想念が外部のものの影響を受けずにいる時に出現する。
これが思考者(神我)の本当の表現である。
私の癒しの想念は発出して貴方達に届き、その使命を果す。

88 大自然における無数の形あるものの世界はすべて、
無限者による、無限者の中において表現された(無限者の)想念である。

95 五感を通して触れたりしうる物を見ると、
貴方達はそれをリアルという。
しかしそれは実在の影にすぎないのである。
実在とは内なるもの、不可視のものである。


106 一人に影響するものは全体に影響するのである。

107 然り、私は人類全体とともに苦悩を感ずる。
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それでは少し解説しておこう。

「想念は思考者(神我)の直接の表現であって、
決して思考者より分離しているものではない。
それはあらゆる現象形態の背後にある創造過程である」


私は思考や感情(想念)を「自我」と定義し、
「真我(神我)」と明確に区別して説明しているが、
それは人間が思っている思考や感情が「自我」という意味である。

そして、自我(心)と真我(魂)は別々の2つの意識であり、
実は真我(魂)にも思考や感情があると説明してきたが、
ここが一般的なスピリチュアルの教えと大きく異なる点である。

私は半覚醒して意識が2つになったから言えることだが、
イエスも明確に「思考者(神我)」即ち「思考者=神我」と述べている。

そして、人間の想念はその直接の表現であるとのことだが、
直接の表現というのは間違いではないかと思われる。

何故なら、人間は様々な悪想念を発しているが、
それが神我の直接の表現(投影)とは考えられないので、
神我の思考や感情が汚れたパイプ(潜在意識)を通して、
自我(思考や感情・想念)に反映されていると考えられる。

また、私は真我と自我は2つの異なる意識だと主張しているが、
決して分離したものではないとも書いてきたとおり、
イエスも全く同じことを述べている。

私が書いてきた未常識な話の数々は、
まんざらデタラメではないことがお分かり頂けただろうか。


「人間は心の中に、何か或る観念があると
それについて色々と考えるものであるが、
そのことは、自分自身(真我)にとっては
外部であるものを見詰めていることになる」


これも半覚醒による「内外反転の認識」のとおりだが、
オコツトも人間の内面を「人間の外面」と呼んでいる。


五感を通して触れたりしうる物を見ると、
貴方達はそれをリアルという。
しかしそれは実在の影にすぎないのである。
実在とは内なるもの、不可視のものである。


これはそのままの意味だが、
人間が物質や現実(リアル)だと認識しているものは、
実在ではなく投影だということである。

これも半覚醒しなければ感覚化されないことだが、
そのことを意識して内観すれば意識進化が加速することが、
私のブログ読者たちによって証明されている。


「一人に影響するものは全体に影響するのである。
然り、私は人類全体とともに苦悩を感ずる」


これはあまり解説の必要はないと思うが、
意識というものは本質的に1つだということである。

もちろん、「私の意識」や「あなたの意識」や「あの人の意識」があり、
それぞれ独立した個の意識を持っていることは幻想でも事実であり、
私はこれを決して否定する気はないが本質的には境界のない集合意識なのだ。

また、幽界は苦悩の世界で、神界は歓喜の世界で、
当然ながら幽界霊は苦悩し、神界霊は歓喜しているのだが、
総ては創造主である絶対神の中に存在しているものであり、
究極的にいえば総ては絶対神の夢の世界ともいえるだろう。

話が少し飛躍したが、
半覚醒すると至福感に満たされるようになるが、
人類が自分の投影(自分自身)だと分かるため、
人々の苦悩を見てみぬフリをすることが出来なくなり、
自己犠牲的に他者救済を目的に生きるようになる。

半覚醒とは神我(キリスト)の目覚めを意味するので、
救世の使命を自覚するようになって当然だといえるが、
それは即ち「自己救済」であり「意識進化(宇宙進化)」のためなのだ。

逆に、そのような決断をすることにより、
半覚醒への道が短縮されることになるのは、
落雷事件後の私の経験でも明らかなことだが、
5次元霊のホワイト・イーグルも次のように述べている。


『初級イニシエーションは、
「生活の中での一つひとつの気づき」です。
つまり、「人は神の子」「愛と奉仕が人間の道」
という真理に一歩一歩目を開いていくことです。

上級イニシエーションは、人生の大きな転機の中で、
「自分を捨てて地球(宇宙)進化のために全面的に献身する」
という決断から始まります。
人はこの決断をするならば、一つの人生の中で
幾段階ものイニシエーションの階段が上れます。
一生涯で釈迦やイエス・キリストに近い所まで上れるのです』




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この記事へのコメント
ブログによると、反省と感謝を徹底することで現実の問題を解決できるそうですが、頭では理解しても感情が納得できません。そのような場合でも、取り敢えず反省と感謝をしておけば効果が出るものなのでしょうか?
Posted by at 2016年03月15日 14:16
本当は内観して、出来事の意味を理解すれば、必然的に何事も反省と感謝に繋がるのですが、
とりあえずは感情が納得しなくても謝罪と感謝の言葉を繰り返していれば、
言霊の力によって意識が変容していきます。

何か変化があれば、あるいは変化がなければ、またコメントください。
Posted by ZERO at 2016年03月15日 20:53
半覚醒が意識レベル1000以上であり仏陀が3900とありましたが
仏教でいう阿羅漢果は意識レベルどれぐらいでしょうか?
Posted by a at 2016年03月16日 22:47
aさん、こんにちは。

阿羅漢果は半覚醒の意識状態なので1000以上ですね。

「以上」ということは、釈迦の3900も含まれます。

おそらくアセンションが6000くらいなので、
1000〜6000くらいの間が阿羅漢果の境地といえると思います。

あくまでも仮説として受け取ってください。

Posted by ZERO at 2016年04月02日 20:40
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