2016年02月29日

【第2の聖書】イエス・キリストの御言葉(第2話)

引き続き、イエスの講話「第2話」を紹介したい↓
(※私が特に強調したい部分を赤字にした)


24 貴方達は自分達の間から偉人が死んで行くのを損失だと思う。
しかしそうではないのである。
なぜならばこれら偉大なる精神の所有者達はますます偉大になって行き、
貴方達を置き去りになど決してしていないからである。
彼らはこれまでよりも猶多く実在の中に生きている。

25 故に貴方達は何ものも失ってはいず、
むしろこれまでよりも多くのものを得ているのである。
貴方達の身罷った愛する人々を考えてみるがよい。
彼らを失ってしまったと貴方達は思い込んでいる。
私は保証するがそれは真実ではないのである。
彼らはこれまでよりも優れた者となっており、
これまでよりも貴方達に近いのである。

26 従って又、私も貴方達を置き去りにしたのではなく、
依然として貴方達と偕にあることが、今解ったであろう。
私は世に在って世を変え、すべての人々が内在の真理を悟り、
自分の神性を自覚するようにすべての人々の心を高めつつあるのである。

28 たいていの人々の犯している大きな誤りは、
私と私の弟子達が何処か遠く離れた処に寄留していて、
貴方達をそこに入居させてやると称している何処かの団体から旅券を入手して
貴方達が其処へ到達する時まで待っている、と思っていることである。

29 特定の場所というものはないのである。
ある意識の状態があるのみである。
しかも私達は今貴方達と偕に在る。
この事を貴方達が悟れば悟るほど、
私達は貴方達の生活の中に入って行って貴方達を援助することができるのである。


30 神意識とは一体自分にとって何を意味するのかを、今、考えてみるがよい。
それは私の中にあるのと全く同様に貴方達の中にある意識なのである。
意識に違いはない。只違うのは、自覚、すなわち意識の悟りの程度である。

31 神の意識は部分部分に分裂しているのではない。
従って自分はこの一部であるとか、
あの一部を形成しているなどと云えるものではない。
神は一個の完全なる全体であり、全体として神御自身を表現している。
貴方達は神の中に生き、動き、存在を保っているのであり、
神は貴方達の中に生きているのである。
この事を貴方達自身の意識によって自覚するがよい。
そうすれば貴方達の意識は一切を支配する力となる。


32 未だかつて熱心な祈りが無視されたことはない。
神は貴方達が求める前に貴方達の必要とするものを知り給う。

35 人々の中には、祈る時神は遠くにましますと思う者もいる。
私は貴方達にいう
自分の密室に入り、ドアを閉じ、そこで秘かに祈るがよい。
貴方達の父なる神は秘かに聞き給い、あからさまに報い給うからである。

36 その意味するところは明かである。
貴方達自身の秘められた室に全能者はまします。
全能者は遥か遠くにましますのではなく、
貴方達のうちなる実在の生ける顕れであり、
貴方達の実在、貴方達の真我である。

37 この事を知った上で魂の静けき極みにおいてひそかに熱禱すれば、
全宇宙が動き出し、貴方達の求めるものをつくり出し、顕し出すのである。

38 まことの祈りはすべて瞬時に叶えられるものである。
貴方達の祈りもまた一瞬にして叶えられる時が来るであろう。
貴方達は祈りを実修しなければならぬ。
心を平和にし、ひそかに祈ることを実修しなければならぬ。
受けたりと信じたとき得るのである。

39 私達みんな、貴方も私もそして私達と偕にある他の人達も
みな一つに結びついた大いなる無限の全一体であり、
何の隔てもない、ただ愛のみの一家族であると悟ることは尊い。

45 神と人とが一体であることを本当に学びとることの何と遅いことか。
貴方達は自分を制約しているものを捨て去ることを恐れている。
まるで子供のように貴方達は自分の玩具、自分の壁、仕切り、
教会・礼拝堂(キリスト教)、シナゴーグ(ユダヤ教)、
モスク(回教)にしがみついている。
ああ、貴方達一同を私の翼のもとに引き寄せて、
すべてのものの中にある共通の一なる生命を
見せてあげることが出来たらと、どんなに私は思うことか。

46 貴方達は、神が一切の生命であり、この生命は目に見える、
或は目に見えないが、完全なる愛であることを学びとるのに
なぜこんなに長くかかるのだろうかとよくいぶかったりするが、
それは、真理を内からではなく外から掴もうとするからである。

47 なくなりはしまいかと恐れているものに、
何とまあ誰も彼も同じように執着していることか。
おのが生命を得んとする者はこれを失い、
おのが生命を棄つる者はこれを得る。

48 私は神我より語る、私は常にそうしてきた。
私の言葉が外側にのみ住む人々にとって奇異に思われたのはその為である。
幾百万もの人々が今なお束縛の中にある。
私の扉はすべての人々が自由に出入りして
私と食事を共にするように常にすべての人々に開かれている。

49 ところが悪魔がその道を遮ろうとしている。
その悪魔とはすべての者が克服すべき偽我であり、感官という悪魔である。

50 はかなき感官のこの迷いのみが真の霊意識の顕現への唯一の障害である。
なぜならば天国は常に貴方達の中にあるからである。
二千年前も今も変わることなく私は生命である。
モーゼとエリヤは私の地上への出現より二千年も先立ってはいるが、
それはすべての人々に現れているのと同じ生命なのである。
故に私はアブラハムより前に実存しているのである。

51 時間というものは存在しない。
私は過去に存在したように今も存在しており、今後も常に存在する。
この事を悟得すれば、貴方達は自分も又全能者の
生ける表現であることを銘記しなければならない、
なぜなら、父なる神が常に貴方達の中で働き給いているからである。


54 十字架という象徴は人の内なる神我、
手もて造らざる神殿(肉体)の中における覚醒、
聖化、よみがえり、昇天の謂である。
これこそが征服者、神我である。
その過程はすでに貴方達に説明した。
従って再説の必要はないが、私の語った言葉を再読すれば
貴方達の裡なる御霊が真理について尚多くを明かすであろう。

58 肉の感官の声は影の声、分離、制約、病苦、死を示唆する悪魔である。
神の一人子、すべての父なる神我を固守せよ。

59 悪魔を恐れるな、恐るべきものは何ひとつとしてないからである。
貴方達としては、
「肉の心なる悪魔よ、我がうしろに退がれ、私は人の子にして又神の子、征服者であるぞ、
私は自分の力で生きるのではなく、常に私とともにいます父なる神によって生きるのである。
父なる神こそが私の導き手であるぞ」
と言いさえすればよい。

60 私の中で平安を得るがよい、とかつて私は語ったことがある。
世にある貴方達は苦難に遭うであろうが、勇気を奮い起すがよい。
私はすでに世に打ち克ったのであるから、貴方達もまた世に打ち克つのである。

78 求めよ、そうすれば贈り物は貴方達のものとなる。
探せよ、そうすれば見出す。
叩けよ、そうすれば戸は開かれる。
求めるものは受け、探す者は見出し、叩く者には戸が開かれるからである。

79 何であれ、自分にして貰いたいことを人にしてあげよ。
人の長所、欠点を見れば、それが自分の中に固定してしまうことを心の奥深く知るがよい。
また自分に人からして欲しいと思うことを先ず人にするがよい。

80 明日を思い煩うな。
今、のみが唯一の時間である。

今を自分の実在とせよ。
そうすれば明日のことは明日自身が処理するであろう。
では、未来を思い煩うのあまり奇しき今を逸するなかれ。
意識は今の中でのみ創造をなしうるのであって明日においてではないのである、
また昨日においてでもないのである。
昨日は記憶に過ぎず、明日は希望に過ぎない。
今こそが唯一の創造をもたらす瞬間である。

81 貴方達は毎瞬毎瞬、神の中で創造することができるのである。
そしてそれは実に、「今」である。
貴方達が神のみ心の中で「今」創造したものはすでに確立している。
故に明日は明日自らが処理するであろう。


83 利己的とならぬように努力せよ。
これが受容性の秘訣である。
貴方達は、御霊の一欠片ではなく、全体と一つなのである。


84 真にこのことを悟ったとき、変貌がおきる。
なぜなら受容性とは受けることだからである。
実は、神は常にその賜物をすべてのものに注いでいるのであって、
もしこの賜物が欲しいのであれば心を開いて受けさえすればよいのである。
この受け入れることこそが偉大なる者の秘訣である。
すべて真実なる生き方をしている者の秘訣は非利己的なことにある。
故に与えることは受けることである。


91 肉の感官意識が神我意識に気付くと、感官意識は昇華して神我意識となる。
私は神我として世と世にあるすべてのものとに打ち克った。
私は肉の感官、肉の心、五官という悪魔に打ち克ったのである。
貴方達も又その通りになるであろう。
かくして、貴方達は天からの声というのが実は神の意識であることを悟るであろう。

92 人は自分自身の想念によって自分の獄壁を造る。
自分で造り出した観念によってその通りに制約される。
貴方達の造り出す観念の中、
最大なものでさえ実は一個の制約でしかないのである。
問題は、生命とは何かと論うことではなく、
これが生命であると身をもって断定することである。

95 放蕩息子の寓話の中に父の愛が示されている。
息子の放逸、その悔悛、自己自身すなわち真の霊的状態の恢復、
先ずもろもろの艱難辛苦を舐め、せっかくうけ継いだ財産も蕩尽し、
やがて自ら進んで一僕となる為に帰還するがやがて本来の息子となる。

97 悔い改めが赦しに先行する。
父の愛が解った時始めて心底より悔い改めが起り、
その時彼は真に赦されたのである。


100 貴方達はこれまでとかく人々を非難しがちであった。
自分が非難されない為には、人を非難せぬことである。
先ず己が目より梁を取り去るがよい。
そうすれば同胞のまなこの棘の取り方も一層解るようになるであろう。



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