2016年02月22日

アンチ・キリストが説くイエス・キリストの教え

前回の「お白石持神事」の記事の続きだが、
覚醒戦隊ゴジゲンジャーの
「クリスチャンが救われるという本当の意味」
の続編でもある。


「∀NTI CHRIST 完全FILE」シリーズで、
私はアンチ・キリスト(666の獣)を演じてきた

その理由は今さら述べるまでもないと思うが、
以下の映像を観れば一目瞭然だろう。




ローマ・カトリックはイエス・キリストに従わない
「偽キリスト教会」であり、悪魔の巣窟なのである。

私は20歳の頃に「フリーメーソン陰謀論」を支持していて、
心の中で「キリスト教」を信仰していた時期があるのだが、
『日月神示』を研究していくうちにキリスト教の欺瞞に気づいた。


それが私が提唱してきた「善悪逆転論」であり、
カトリック教会はサタン(ルシファー)を崇拝する、
アンチ・キリスト(666の獣)の牙城だったのだ。

その後、上の動画のような陰謀論を知ったのだが、
ルシファーやアンチ・キリストにも善悪の2種類ある。


善のルシファーは救世神スサノオであり、
アンチ・キリストはその化身として誕生する救世主スサノオ、
これが「再臨のキリスト」と呼ばれる666(ミロク)であり、
大化け物と呼ばれた出口王仁三郎がその予型を演じたのだ。

私が自称していたアンチ・キリスト(獣)はそのことで、
「キリスト教会に反対する者」という意味なのだが、
もしイエスが現代に生きていたら彼もキリスト教に反対し、
その意味で「反キリスト」と呼べる人物だといえるだろう。


つまり、キリスト教会はイエスの教えに背く「反キリスト」、
私はキリスト教会に反対するという意味での「反キリスト」。

だが、悪神の働きも大神の働きの一部であり、
私は決して不調和な敵対意識を持っているわけではなく、
神の経綸の一環である「御用の悪」を理解した上で、
真実を世に訴えているのだ。

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だが、歴代の教皇がすべて「悪の反キリスト」ではない。

1952年4月、ピオ12世がバチカンからNHKを通じて、
日本に向けて次のように放送したという。

『慈愛深き我らの主は、来るべき世紀を預言して、
東の国の多くの人々が天国の饗宴に座するため、
「来たり参じるだろう」と言われました。
この喜ぶべき予言が愛する日本に実現いたしますことを。
全ての国々の王、全ての国々の望み、東よりの光、
輝かしき未来の光にして正義の太陽なる神よ!
御身の愛する日本、そして御身の名において、
私がこよなく愛する日本の上にお恵みをもたらし給わんことを』



つまり、ピオ12世は「再臨のキリスト」が、
日本の天皇家に誕生することを知っていたのである。

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さて、イエスの教えに従って悔い改め、
最後まで耐え忍んだ者こそ勝利者であり、
白い小石が与えられるという話があった。

「イエスの教えに従う者」とのことだが、
これは飛鳥氏がクリスチャンだからそう言っているだけで、
キリスト教に入ったり『新約聖書』を読んだりして、
イエスの教えを学ばなければならないということではない。


イエスの教えと言っても色々とあるが、
『新約聖書』を読む限りは、
釈迦と違ってシンプルなことしか説いていない。

「イエスの教え」で検索すると色々と出てくるが、
次の2つが最も有名で重要なことだと思われる。


「汝の敵を愛せよ」

「悔い改めよ、天の国は近づいた」




「全人類キリスト化計画」を企んでいる私(獣)の見解では、
イエス・キリストの教えは上記の2つに集約されていると思う。

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「汝の隣人を愛せよ」も有名だが、
敵を愛せれば隣人も愛せることになる。

逆に、隣人を愛してその愛を拡大していったところで、
一生かかっても人類愛には到達し得ないので、
「汝の敵を愛せよ」だけでいいだろう。


「汝の敵を愛せよ」「悔い改めよ」は、
子供の頃に誰もが教育されたであろう基本的な道徳である。

「喧嘩した友達と仲直りしなさい」と「反省して謝りなさい」である。


だが、現実は大人の世界でも敵を愛している人がどれだけいるだろうか。
隣人すら愛せていない人も少なくないだろう。

しかし「愛そう」と思って愛する努力をすれば、
それは「なること」を目指す信念体系領域に入ってしまう。


味方を愛することは誰にでもできるが、
敵を愛することは普通はできないことである。

それは「真の愛」ではなく「自我の愛」なのだ。

真の愛は、敵や味方、好き嫌い関係なく、
人類を平等に愛するものである。

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それは半覚醒して到達する境地だが、
内海康光氏も次のように述べている。

『真の愛というものは、
実際は言葉で確認するようなものではないのである。
「愛してるよ」という言葉の実体は、「愛」というよりも
「情愛」「愛情」という言葉で代用される程度のものなのだ。

それは「情」というものが絡んでいるがゆえに、脆く崩れやすいのである。
なぜなら、「情」というのは「好き」という感情と同じで、
条件によって変化するものだからである。

愛する人に裏切られた途端に憎しみを抱く人が多いという事実も、
それを裏付けている。
裏切るという行為がないという条件つきで愛していたがゆえに、
条件が変わることで愛情もなくなり、憎悪に変わったということである。
見返りを求める気持ちがあるから裏切られたという想いが出てきたわけである。

また、「この人は愛してるけど、この人は愛してない」と人は言うが、
これも条件によって「愛する・愛さない」が決定されているということだ。
たとえば湾岸戦争が始まった当時、テレビに米国の兵士が出て
「愛する家族のために戦う」と言っていたのだが、
裏を返せば敵の兵士とその家族は愛していないということである。

このように条件で左右されるものや
見返りを求めるものは真の愛とは呼べないものである。
真の愛とは、神なる生命エネルギーそのものである。

それはすなわち、見返りを求める愛でもなく、
条件によって左右される愛でもなく、ただひたすら
生きとし生けるものに限りなく与え続ける愛のエネルギーなのである。

人を殺したり、大勢の人を騙したり、
容赦なく人を傷つけたりする者にも神の愛は降り注がれるし、
神にツバを吐く者や神を呪う者にさえも神は愛を与え続ける。
一般の人がそれを理解できないのは、
生命エネルギーの真実に触れたことがないからだ』


生命エネルギーとは5次元エネルギー(真の愛)だが、
太陽を見れば分かりやすいと思う。

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去年、ヌーソロジーについて連載記事を書いたが、
やはり「外側の世界を投影として観る」習慣が、
意識進化の基本だという話があった。

つまり、「他者は自分の鏡」なので、
自分と向き合って内観し、
自分の総て愛することができるようになれば、
それは人類愛そのものになるのである。


もちろん、殆どの人が心のハルマゲドンで葛藤に苦しみ、
場合によっては発狂するほどの自己嫌悪・自己否定に陥るが、
ネオデジタル思考で感情を切り離して客観的に直視するのである。

アリオンのアドバイスによると、
無理に自分を好きになる必要はないが、
見たくない自分の姿も認めて受け入れることが大切だという。


結局のところ、「汝の敵を愛せよ」と「悔い改めよ」は、
内観によって直結していることになる。

従って、教義を学んで人生の指針にするのではなく、
日常生活の中で内観することこそが大切なのである。

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結論として、イエスも内観を説いていたということだ。

『聖イッサ伝』によるとイエスはインドで仏教を学び、
その後おそらく、ヒマラヤで修行したようである。

それを裏づけるかのように、
イエスが所属していたというユダヤ教エッセネ派のクムラン宗団は、
洞窟に住んで断食や瞑想など仏教徒のような生活をしていた。


有名な話では、イエスは荒れ野で40日間の断食瞑想をしたが、
そのときに釈迦と同じく次々と悪魔の誘惑を受け、
食欲や性欲や金銭欲などに打ち勝った。

これは内観の初期のプロセスであり、
「悪魔」というのは自我の欲望の比喩である。


前述のヨハネの黙示録(イエス・キリストの黙示)
をもう一度お読み頂きたい。

「勝利を得るものには隠されていたマンナを与えよう。
また、白い小石を与えよう」



勝利というのは誰かと戦うことではなく、
己自身との戦いである内観(心のハルマゲドン)に他ならない。

普通に生きているだけでは、
人間は毎日少しずつ潜在意識を汚していくことになる。


自分にできる範囲でいい。
毎日少しずつ潜在意識を浄化し、
純粋無垢な幼子の心に戻っていく必要がある。


イエスはこう言っている。

「心を入れ替えて子供のようにならなければ、
決して天国に入ることはできない」


そして、このようにも言っている。

「神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ」

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イエスはカルマの法則についても説いているが、
内観を深めていくと3次元での因果律だけではなく、
4次元的なカルマの法則の理解することができる。

少なくとも、人生の内観を続けていれば、
大きなカルマを作るような言動はなくなっていくもので、
結局は教えではなく「内観」という実践に行き着くのだ。


そして、イエスの最大の教えは最期の処刑そのものにある。

贖罪神スサノオの御魂をもつイエス・キリストは、
自分の投影である人類の罪穢れを浄めるために、
自ら処刑されるように仕向けたのである。


同時にイエスを処刑した側にも罪が生まれることになるが、
それについてイエスはこう言っている。

「父よ、彼らをお赦しください。
彼らは、自分が何をしているのか自分ではわからないのです」

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私は人類のために処刑されるのは嫌であるが、
人類のカルマを引き受けているつもりである。

それは言い換えれば、
自分の世界には自分しか存在せず、
全ては自分の投影であるから、
「全責任は自分にある」という世界観で、
ホ・オポノポノの原理と同じである。


それが「内観」という名の人生であり、
イエスが死と引き換えに教えた霊止之道(ヒトの道)にして、
真我の愛に目覚めるための究極の教えだった、
といっても過言ではないと私は思っている。

イエス・キリストの再臨は人類の象徴として、
「世界天皇の世界統治」として実現するが、
個人レベルの意味では「魂の覚醒」として成就する。


それは他人事ではなく、遠い未来の絵空事でもなく、
「今、ココ」の自分の意識の問題だということを理解・認識し、
「自分を観る」ということから逃避せずに向き合い、
認めて受け入れて浄化していくことに人生の意味がある。

汝は、再臨のキリストの自覚を持っているだろうか……?


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posted by ZERO at 09:48| Comment(2) | 意識進化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

以前 ゲリーボーネルさんの本を読んだ時

イエスキリストをチャネリングした内容が書かれてあって 
キリストが生きているとき 3つの事を守れば良いと言ってたそうです。 

*自分も他人もゆるすこと*自分も他人も傷付けないこと
*宗教団体をつくらないこと

全く伝えられなかった最後の教えをみると
宗教団体は キリストの教えを守ってない、という事がわかりますよね。

でも現在、ZEROさんのブログを読み進めるうちに
宗教団体も人間が進化するために 神がゆるしたこと 必要だったこととして、認識出来るようになりました。

ありがとうございます☆
Posted by エストレーリャ at 2016年02月23日 17:15
エストレーリャさん、こんにちは。


「他人も傷付けないこと」というのは、
自分に悪意がなくても危害妄想的に傷つく人は傷つくので難しいですね^^;

まぁ、他者は自分の投影ということを考えると、
自責の念や自虐的な思いを持たなければ、
とりあえずそれで良いかと思います。

宗教団体を作ってはいけないというのは、
日月神示にも書かれていますが、
エストレーリャさんのおっしゃるとおり、
必要悪だったともいえるかもしれませんね。

宗教は一種の道徳的な指針の役割を果たし、
宗教がなければもっと荒廃した世の中になっていたかもしれないし、
宗教はアヘンと言えどもそれが人々の心の支えになってきた部分はあると思います。

僕の母親も宗教遍歴を繰り返していましたが、
良くも悪くも体験として過去はオールOKだと思います^^;
Posted by ZERO at 2016年02月29日 04:51
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