2015年07月27日

アセンション・プログラム(ψ7「愛」の理解)

次元観察子ψ7を少し掘り下げてみたいが、
半田広宣氏はψ7について次のように述べていた↓

「意識自体は自己と他者を区別しない
空間領域を厳然として持っているのだ。
この空間領域は、おそらく私たちの意識の中では倫理や良心、
そして愛の源泉として機能しているに違いない。
オコツトがいう意識進化の方向性とは、
他者をも自分自身と同一のものと見なす意識の方向性のことなのである。
わたしは探し求めていた強靭な愛の存在証明が、この精神球と呼ばれる
反転した空間領域の中にあるのではないかと確信した」



転載終了

EPSON644-9f3fd-e4dc7.jpg


形態波動エネルギー研究所の足立育朗氏は
「愛=陽子」だと説いているが、
半田氏も同様の説明をしている↓

「シリウスの力そのものである
次元観察子ψ7とは一体何だろう。

前章でも少し延べたように、
この空間は自己と他者を全く区別していない、
いわば愛の源泉として働いている空間でもある。

当然のことながら、この空間は物理学的に言えば、
SU(2)変換に対して不変な場として現れなければならない。

そのような量子の場とは一体何か。
それは核子を構成している陽子と中性子である。

陽子と中性子は物理学的に言えば、
アイソスピン対称性というより高次の対称性を持っており、
共にSU(2)変換に対していかなる影響も受けない。

次元観察子としてこの2つの場の違いを言えば、
ψ7〈位置の変換〉とψ8〈位置の転換〉という言い方になるが、
分かりやすく言えば、自己側から他者と一体化している意識領域か、
他者側から自己と一体化している意識領域かの違いである」



転載終了

b0188590_711847.jpg


半田氏は「愛」について、次のようにも述べている。

「愛とは、おそらくわたしたちが創造や文明の
発展と呼ぶ差異の増殖とはおよそ無縁のものなのだ。

むしろ、真実の愛とは、現存しているあらゆる創造物の
解体作業の中から立ち上がってくるものと考えるべきである。

人間が文明という名のもとに作り出してきたまやかしの創造を
破壊し尽くすものが真実の愛の正体でなければならない」



転載終了

o0350024712484123584.jpg

これは、反キリスト(666の獣)を名乗っていた私としては、
非常に深い部分で共感できる話である。


不思議研究所の『世界不思議ぐるぐる紀行』というビデオの中で、
森田健氏は次のように述べている↓

『先日ある講演会で講演者のお話に対して
「愛と調和の時代にそんな発言は困ります。訂正して下さい!」
とおっしゃった方がいました。

その瞬間、
それまで暖かいエネルギーに包まれていた空気が怒りで一変。

ご本人の中に「愛とはこうあるべきだ」
という思いがあったせいなのでしょうか。

自分の中に正義を握りしめることと、
本当の調和というのは全く違うものなのだと改めて実感、
自分を振り返る良い機会となりました。

私自身の中の「正しい」と思い込んでいる「執着」で
他人をコントロールすることを手放して、
全てを委ねられたとき、本当の「内なる愛」を生きられるのかも』



転載終了

11464_232730489256_527819256_4180381_6681460_n1-55d4f-thumbnail21.jpg


まずは、人間の自我による「愛」の概念を破壊する必要があり、
そのための記事も過去に何度も書いてきたが、
鬼将軍に借りている内海康満氏の著書『中心感覚』の
返却の時期が近づいてきたので少し読んでみると、
愛について書かれていたので紹介しておきたい↓


愛とは何か。それは一切の束縛をしないことである。
そして誰に対しても、見返りを求めない無償の行為。

すなわち、妻であれ、子供であれ、
家の前を騒音を立てて走る暴走族であれ、
それらの間にどんな区別ももうけない慈しみのことである。

キリストが説いた愛がそうである。

これに対して、日本人の考える愛は「愛情」のことである。
それは相手を束縛し、相手から見返りを求める傾向が強い。

いちばんいい例は、互いに依存しあった母親と息子の関係で、
「お母さんは、○○ちゃんのことをこんなに思って
愛情を注いでいるのに、どうして分かってくれないの」となる。

子を思う気持ちにウソはないのだが、
そのことが子供の自由を束縛する
押し付けになっていることに気づいていない。

だから、自分の思ったような反応が
相手から返ってこないとすぐに腹を立てたりする。

そこには愛しているのだから、愛されて当然という、
愛を一種の交換関係もしくは取引関係と捉えている側面がある。

「親」という漢字が示すとおり、親はあくまで、
木の上に悠然と立って子供を見守ってやればよいのである。

そうすれば、子供の方から親の姿を探し出して、
その姿を見上げて育っていくものである。

男と女の間でも、こんなに愛しているのに振り向いてもくれない、
そんなあなたが憎いという具合に愛情が憎悪にひっくり返ってしまう。

愛を限られた関係間の「情」のやりとりであると狭く捉えているからである。

恋人間だけで、あるいは家庭内だけで成立している「閉じた愛」を、
道徳的にもかなった、愛の美しい形と考えがちである。

だが、むろん私は不倫やフリーセックスを礼賛しているのではないが、
対象を限らず束縛せず、見返りも求めない「自由な愛」が本来の愛の姿であろう。



転載終了

o0350024712484123584.jpg


愛情と憎悪が表裏一体であることを最初に唱えたのは、
精神分析学者のフロイトだが、
真の愛(真我)に目覚めれば愛情や憎悪を超越する。

従って、憎悪という感情が湧くことはなくなるが、
人間的な愛情も希薄になるので愛がないように見えるが、
それは大きな間違いで、神も残酷で無慈悲に見えるものだ。


また、ψ7の意識レベルになれば、
特定の異性と「交際」するという概念は消滅するはずである。

ψ7まで行かなくてもψ5で半覚醒した時点で、
特定の一者のみを特別に大切にする感覚は薄れていくものだ。


また、交際は究極的にはセックスが目的で、
セックスには陰陽合一という目的もあるが、
半覚醒は陰陽合一の状態なのでセックスの欲求も希薄になり、
子供を作る目的以外でのセックスは殆どなくなるものである。

そのことは過去に何度も書いてきたが、
下図を見ればイメージできると思う。

EPSON644-9f3fd-e4dc7.jpg


「好き・嫌い」と真の愛と聖行為で紹介したが、
内海氏は『生命を支配する陰陽の法則』の中で次のように述べている↓


『真の愛というものは、
実際は言葉で確認するようなものではないのである。
「愛してるよ」という言葉の実体は、「愛」というよりも
「情愛」「愛情」という言葉で代用される程度のものなのだ。
それは「情」というものが絡んでいるがゆえに、脆く崩れやすいのである。
なぜなら、「情」というのは「好き」という感情と同じで、
条件によって変化するものだからである。

愛する人に裏切られた途端に憎しみを抱く人が多いという事実も、
それを裏付けている。
裏切るという行為がないという条件つきで愛していたがゆえに、
条件が変わることで愛情もなくなり、憎悪に変わったということである。
見返りを求める気持ちがあるから裏切られたという想いが出てきたわけである。

また、「この人は愛してるけど、この人は愛してない」と人は言うが、
これも条件によって「愛する・愛さない」が決定されているということだ。
たとえば湾岸戦争が始まった当時、テレビに米国の兵士が出て
「愛する家族のために戦う」と言っていたのだが、
裏を返せば敵の兵士とその家族は愛していないということである。

このように条件で左右されるものや
見返りを求めるものは真の愛とは呼べないものである。
真の愛とは、神なる生命エネルギーそのものである。
それはすなわち、見返りを求める愛でもなく、
条件によって左右される愛でもなく、ただひたすら
生きとし生けるものに限りなく与え続ける愛のエネルギーなのである。

人を殺したり、大勢の人を騙したり、
容赦なく人を傷つけたりする者にも神の愛は降り注がれるし、
神にツバを吐く者や神を呪う者にさえも神は愛を与え続ける。
一般の人がそれを理解できないのは、
生命エネルギーの真実に触れたことがないからだ』



転載終了

20101126_719527-c18b7.jpg


内海氏の話は私も同感だが、
出口王仁三郎によると、神は生物等し並に愛を注いでいるが、
人間はこれを愛することはできず、ただ恋をするだけだという。

恋という字は下に心があるので下心があると言われるが、
3次元意識では「真の愛」を認識することはできない。


真の愛は、ψ7に到達して陽子を理解しない限りは、
残念ながら分からないということだが、
ψ5に到達(半覚醒)すればその一端を感じることはできる。

親の愛が真の愛に近いので内観が大切だと書いてきたが、
それは真の愛(5次元エネルギー)が魂の覚醒剤になるからだ。


そして、5次元の入口である霊界の太陽に到達した時に、
強烈な愛を実感するものである。

霊界の太陽もこの世の太陽も同じものだと私は思うが、
まさに太陽そのものが「愛」であり、
ハートが太陽であることからも裏づけられる。

822.jpg


それは、太陽が万物に平等に無条件に
光と熱を与えていることからも分かるが、
その太陽に降り立った時の歓喜は筆舌に尽くしがたい。

そこで私が体感した「真の愛」とは、
自分の内外を循環するエネルギーそのものだった。


愛が陽子なら感謝は中性子か反陽子なのか、
それはどうかは私には分からないが、
感覚的に愛と感謝は一体のものだと思うが、
「呼吸」というものがそれに相応しい。

その光も、私の魂を半覚醒させる大きな要因になったと思う。


そして、半覚醒して宇宙が自分の内在世界であることを自覚すると、
この宇宙には自分の愛が満ち溢れていることが分かる。

私は万物を愛し、人類を愛しているが、
それを象徴しているのが、また太陽である。


その愛がフィードバックして感謝の気持ちに満たされる。

いや、真我の自分が万物に与えた愛が感謝として
肉体の自分にフィードバックしているのかも知れない。

e6849be6849fe8ac9d5b25d.jpg


それは人間の感情の愛(愛情)とは異なるものだが、
異なるというよりも本質的な愛だと言えるだろう。

その本質である真の愛の断片が投影され、
自我に歪められたのが「人間の愛情」である。
(もちろん純粋な愛情も存在するが……)

最も偉大な真理は、この世は自分の投影だということであり、
それに気が付けば、この世には愛が満ち溢れていることを実感する。

だが、この世には喧嘩や犯罪や戦争が絶えないではないか……
と思う人もいるだろう。


だから繰り返し言うが、
この世は自分の投影だということに気が付けば、
この世には愛が満ち溢れているのである。

人間界での全ての出来事は、
神の大愛の中で営まれていることなのだ。


この世が自分の投影である限りは、
自分を愛せずに人類は愛せないのは道理である。

真の愛は無条件であり、好き嫌いの問題ではない。

いずれにしても、真の愛の一端を垣間見るためには、
人間型ゲシュタルトの破壊が必要となるだろう……。

misa-1.jpg


また、この世で真の愛に最も近いのは親の愛であり、
親への感謝が半覚醒を促進することも理に適っており、
そのための効果的なメソッドが内観ということになる。

オコツトによると、宇宙の究極の二元性は神と人間だという。


では、神と人間の関係とは何かというと、
1つの表現として愛と感謝の関係だと思うが、
それを前提とすれば、神と人間の統合は愛と感謝の一元化で、
それによって愛と感謝が同時に自分の内外を循環するといえる。

物理性心理学のメンター・蔵本天外氏の格言集に、
「苦しいのは感謝が足りないからだ」というのがあるが、
『日月神示』にも次のように示されている↓

「何事に向かっても先ず感謝せよ。
ありがたいと思え。
始めはマネゴトでもよいぞ。
結構と思え。幸いと思え。
そこに神の力加わるぞ。
道は感謝からぞ」



10年程前に「ありがとう」ブームが発祥(発症)し、
森田健氏は「自発的感謝病」と批判していたが、
私はブームに便乗してひたすら「ありがとう」を唱え、
難が有った時こそ「有り難う」を唱え続けた。

このブログの読者の中でも、
思えなくても「有り難う御座いました」を唱え続けた結果、
本当に感謝の気持ちが湧いてきて、
災難が少なくなって平穏な日々を過ごしている人もいる。


言霊は潜在意識や観念・思考をを変えて人生を変え、
そして集合的無意識にも影響を与えて宇宙を創造する。

これが「言葉の創化力」というもので、
『日月神示』にも「言葉ほど怖いものないぞ」と示されている。


にほんブログ村
posted by ZERO at 22:55| Comment(1) | ヌーソロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ノウスは女性の性欲、ノスは男性の性欲らしいですね。
男性の性欲がノスなのは分かるけど、女性の性欲がノウスなのがイマイチよく分からない。
取り敢えず、どちらの欲求も希薄になっていくんでしょうね。
Posted by 名無し at 2016年10月16日 00:41
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。