2015年05月31日

変換人の知識と思考様式

『時空を超えて生きる』の中で、Kan.氏は次のように述べている↓


思考と感情と肉体の奥にあるものを突き詰めていくと、
自然に潜象界に行き着きますが、そこにあるものを短絡的に、
真我やアートマンと称してしまうと、
とたんに潜象界ではなく「大いなるもの」になってしまいます。

「大いなるもの」はギリギリ潜象界を感知できますが、
本来、潜象界は何も感じないし、何もない世界ですから、
実感することはありません。

でもそれは確かにあって、
ぎりぎり潜象界を感じることのできる場所があるのです。

アートマンが一人歩きすると、
人はアートマンを追い求めるようになります。

でも、本当の意味でラマナ・マハルシ
(1875〜1950。インドの覚者)と共振するなら、
アートマンも落ちなくてはいけません。

ラマナは厳密にはアートマンとは言いませんでした。
あったのは沈黙です。

「アートマンですか?」と聞くと、肯定でも否定でもなく、
沈黙になって、共振する者だけが分かる世界になるのです。

アートマンを追いかけるとどうなるでしょう?
アートマンが分かったといって、陶酔世界に入ってしまいます。

梵我一如の世界は人間が味わえるオプションの1つですから、
体験してもいいのですが、それが究極かといえば、
それはやはりアートマン幻想であり、
ラマナがいちばん陥ってはいけないと言っていた陶酔世界です。

そこをもって全てとすると、陶酔世界の人になってしまうのは否めません。

ブッダが生きていた頃のインドでは、
ヒンズー社会の中でアートマン探求がブームになっていました。
いい悪いではなく、時代の流れがそうなっていたのです。

でも、「ああ、神とひとつの私がいる」というのは、
自分の中の神に酔ってしまうところがあります。

ブッダの悟りはアートマンではありませんでした。
無我というのは、そういう意味ではありません。

ブッダが凄いのは、「アートマンなどない」と喝破したことです。

「行者なのにアートマンも分からないのか?」という風潮がある中で、
「アートマンはない」と断言するのは大変なことだったと思います。

みんながアートマンを求めていた時代だったので、
ブッダの言わんとするものは伝わらなかったかも知れません。

ブッダ亡き後、彼の地で仏教があまり根付かなかったのは、
仏教が無我を重視したからでしょう。

陶酔世界は味わうべきものなので、否定はしません。
でも、それをもって至高の状態というのは違います。

陶酔と光明を得ることは、
はっきりと違うものだということを、
ここでお伝えしておきたいと思います。

ラマナ・マハルシという存在は、完全に潜象界を極めていて、
潜象界と現象界の両方にちゃんといるという感じがしました。

この両方にいる、というのが、私たちの本来の在り方です。



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「無我」というのは自我が消えた状態で、
真我が目覚めている状態だと私は解釈しているが、
Kan.氏の話によると真我(アートマン)の否定である。

宇宙の根本原理であるブラフマンが個として顕れたのが、
アートマン(真我=魂)とされているが、
究極的にはブラフマン以外は全て幻想と言われているので、
Kan.氏の説明も一応は理解できるのだが、
真我も神仏も存在しないという「無我」や「潜象界」と聞くと、
何だか刹那的な気持ちになってしまう……。


だが、潜象界と現象界の両方にいるのが本来の在り方だという。

梵我一如とは天人合一(宇宙即我)のことだが、
確かに釈迦はその快楽に溺れることを戒めていて、
ヴィパッサナー瞑想を説いているので、
私も日常生活の中で取り入れてはいるが、
Kan.氏の話に基づけば真我を説く私は……^^;


潜象界については前回の記事でも紹介したが、
もしかすると、オコツトがいう変換人の幾何学体系である、
「空間に潜在化している本当のカタチ」のことかも知れない。

私は潜象界を認識していないし、
探求しようとしたこともないが、
どうやら重要なことのようである。


ラマナ・マハルシという人物は潜象界を極めていて、
釈迦も潜象界を極めていたということだが、
ラマナ・マハルシは沈黙を守っていたという。

釈迦も悟りを開いた後、
自らが悟った真理を人々に伝えるべきかどうかを、
28日間に渡って考えた結果、次のような結論に至ったという↓


「わたしの悟ったこの真理は、深遠で、見難く、難解であり。
しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、
衆生に説いたところで莫迦(馬鹿)にされてしまうだろう」



すると梵天が現れて、
衆生に説くよう繰り返し強く請われたという。

梵天(ブラフマー)とは、
宇宙の根本原理である「ブラフマン」の神格化で、
それが個として現れたのが真我(魂)だとされている。

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で、釈迦は真理を説き、仏教は膨大な経典によって、
何とか真理を言葉で伝えようとしているものである。

龍樹菩薩も次のように語っている。

「真理そのものは言葉で語れない。
しかし、言葉で語らなければ、
どうしてそれを指し示すことができようか」



半田広宣氏は次のように述べている↓

身体で理解する……
身を持って体験しなければ分からない……
感覚で悟る……
神秘家の至高体験や宗教的なボディーワークで
経験される非日常的な超越感覚など、
これらの感覚が論理で説明できるものではないことは確かに分かる。

しかし、その種の経験の中にこそ真理があるとする
旧来の考え方はわたしには全く納得がいかなかった。
こと、宇宙的真理と言えばなおさらだ。

考えてみれば、老子の「知る者は語らず。語る者は知らず」
という言葉に代表されるように、西洋、東洋を問わず、
世の宗教家や神秘家たちは真のリアリティーに関しては
絶えず「不立文字」的な態度を取ってきた。

しかし、果たしてこれは本当に正しい洞察なのだろうか。

古代の神秘思想は決まってその全てが
宇宙と人間の一体性を強く主張するが、
そこに明解な具体的構造を与えているものは
ほとんどと言っていいほど皆無である。

我と宇宙、宇宙と我はいかにして「即」なのか、
その答えを知った者など本当にいたのだろうか。

いたのならば、それはなぜ具体的な言葉で
語り継がれてこなかったのだろうか。

おそらく、その理由は二つに一つ、
つまり、誰もその答えを知らないか、
誰もその答えを知ることができないかのどちらかなのだ。

「知る者は語らなければならない」というのが
今でも変わることのないわたしの信条である。

個々の感覚を超えた真のロゴスによって、
真理は語られていかねばならない。

そして、全ての人類がそのロゴスを
共有できるような時代を築かねばならない。

なぜなら、全ての人間がそのロゴスそのものであるからだ。

このような信条を持ったわたしにとって、
人間個々の主観的体験ほどあてにならないものはなかったのである。



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オコツトによると、
釈迦やイエスの時代は「覚醒期」ではなかったので、
釈迦もイエスも覚醒(悟り)には至っていないそうだが、
具体的な話は半田氏との交信記録に記されている↓

「釈迦が教えた悟りとは何ですか」

「悟りとはオリオンにおける負荷、
すなわち観察精神にはいることです」

「観察精神とは何ですか」

「第13番目にある次元の力と方向性のことです」

「釈迦はオリオンに入ったのですか」

「人間の意識としてタカヒマラの全てを目撃したということでしょう。
釈迦の意識は現在、覚醒球領域(ψ8)に位置させられています。

「では、イエスはどうですか」

「同じく覚醒球領域にあります」

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引き続き、半田氏の話を紹介したい↓


人間が意識進化を起こすためには
プレアデス的統制の成熟を待たねばならないーーとオコツトは言った。

これは言い換えれば、物質とは何かという命題を解かない限り、
人間は決して精神の真の自由を獲得することはできないことを意味する。

誤解を恐れずにあえて言えば、いかなる高邁な宗教理論も、
いかなる平和的思想も人間を決して救済することはなく、
物質化した精神はただ物質によってのみ解放されるということなのだ。

その意味で、現代科学の追究の矛先が、
このように物質の統合理論にまで及んできたことは、
プレアデス的統制の解除がいよいよ最終の
秒読み段階に入っているものと考えてよいだろう。

プレアデス的統制からオリオン的統制への移行とは、
人間の意識する空間に生み出された素粒子相互の構造性は、
本来、タカヒマラに由来するものであり、
もし人間が素粒子の起源を問おうとするならば、
それは必ずや人間の自身の精神や意識の構造化の起源として
提起し直さなければならない、ということなのである。

宇宙は人間とともに生み出された
というオコツトの言葉の本位はまさにここにある。

では、現代物理学がゲージ原理を用いて展開している
様々な素粒子の数学的概念を、意識場の構造として
解釈していくことが果たして本当に可能なのだろうか。

もし、それが可能ならば、
プレアデス的統制はオコツトの言葉通り、
オリオン的統制としてメタモルフォーゼを起こし、
新しい知の体系を私達にもたらしてくれることになるだろう。

それによって、私達は外なる世界と内なる世界が
見事な調和を持った天使人類の空間領域、
そう、あの伝説の楽園へと帰還していくことができるのだ。



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意識進化というのは全知全能の神になることなので、
「変換人の知識」や「変換人の思考様式」が、
必要になってくるということだろう。

政木和三氏は3000件もの発明をしたが、
脳波がシータ波の時に全て1秒間で発明したという。

それは政木氏が様々な分野の学問を修めていたからで、
インスピレーションの受け皿となる知識がなければダメである。


半田氏も物理学など様々な分野に精通していて、
相対論と量子論を統合させる空間概念について思考していた為に、
オコツトとのチャネリングが始まったのである。

だからと言って、我々がこれから物理学を学んで、
量子力学の研究家になるのは容易なことではないし、
それをしなければ意識進化できないということもない。


ただ、オコツトの話だけは理解するべきものだと思うが、
それも物理の基礎知識もない一般人には不可能なので、
ヌーソロジーを学びながら思考することが大切になってくる。

前回の記事では、この「思考」について書いたが、
よく読むとオコツトが同じことを説明していた↓


「わたしが今申し上げているのは、
人間の意識進化に必要な変換人の思考様式のことです。
この思考は人間型ゲシュタルトから解放された思考です」



いずれにせよ、変換人型ゲシュタルト思考の獲得は、
ネオデジタル思考が基本になっていることは間違いない。



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posted by ZERO at 01:36| Comment(2) | 意識進化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今更ながら記事を見返しています^^;
膨大な量の文献の写し、誠にありがとうございます☆
読者の意識進化のための、多大な労力ですね。

理解できるところもあり、理解できないところもあり。
しかし、全ては投影というのはすでに宇宙観の常識となっています^^


先日、イエスの映画を見ましたが、閣下みたいで笑っちゃいました(笑)
Posted by 鬼将軍 at 2015年06月15日 10:04
将軍様、こんにちは。

イエスですか^^;

アセンション・プログラムはじっくり考えれば理解できると思うので、
ぜひ真剣に取り組んでみて下さい。

僕もちゃんと読み直して思うことは、
僕が内観で歩んできた進化のプロセス進化と一致しているので、
半覚醒=意識の変容・世界認識の根本的な変革になる内容だと思います。
Posted by ZERO at 2015年06月17日 00:23
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